車輪の独り言

書きたいことを無責任に適当に書きます

物語・プロット制作における私見とおまけ(Advent Calender編)




 拙い文章を書いては自身で楽しみ、物語の外枠を作っては夢想に耽るのが私の趣味なのであるが、この度その稚拙な文章を披露する場があるということであるので筆を取らせてもらう。

 



 これを読む方で小説やシナリオの執筆に興味が無い方も多いと思うが、授業でも頭の中の妄想でも何でも、物語を一切作ったことが無いという方のほうが少ないかと思う。

 我が国の義務教育を受けた者であれば作文は書いたことがある筈なので、ストーリーを一切書いたことが無く触れたことが無い者というのはほとんどいないはずだ。

 そして前者の妄想であれば、誰もが面白い物語やストーリーを描き高揚した記憶があると思うし、後者の作文であれば苦労した方は多いかと思う。私は今でも作文は苦手だし嫌いだ。

ではこの2つの違いは何だろう?現実と虚構だからだろうか?見せる他者が存在するかどうかの違いだろうか?実際に文字に書くことと頭で考えることの違いであろうか?

 

 幾つもの正解があると思うが、正解の一つとして私は「適切な順を追ったストーリーが存在するかどうか」が大きな違いであるかと考える。では適切な順とは何だろう?

 

 例を挙げよう。




 今日の夕食にうどんを食べようと私が思いついたとする。私は鍋焼きうどんを作ろうとうどんを調理し始めるが、困ったことに白菜も長ネギもない。具のない鍋焼きうどんは非常にナンセンスだ。

 他の選択肢もいくつかあるが、私はどうしても鍋焼きうどんが食べたい。冷蔵庫の前で途方に暮れていると、冷蔵庫の別の段に、私のものではない白菜とネギがある。

 私はその段を別の部屋の隣人が利用しているのを知っていたが、その隣人とは交流があまり無かった。そこで私は恐る恐るその友人に白菜とネギを借りれないか聞いてみた。交換に、私はその友人にうどんを振る舞うと約束した。

 友人は快く承諾してくれただけでなく、夕食の準備の手伝いまでしてくれた。結果、私は友人と一緒に愉しい夕食の時間を過ごすことが出来たのである。





 以上は創作である。創作である(大事なので二度)。

 また、本来このような段落を開けることは不適切なのであるが、今回は解説の為にこのような段落を開けたと先に断っておきたい。

 察しの良い方はお気づきであると思うが、以上が物語を構成する上で有名かつ強力な手段である「起承転結」というものを、稚拙に少しだけ利用してみたものである。この手法は我が国において最も知られているが、非常に奥が深いものである。

 まず起承転結とものが何か定義していこう。ただ私はこの分野に特別詳しかったりするわけではないので、多くがwikipediaの抜粋もしくは簡略化した説明になってしまうことを先にお断りしておきたい。

 まず起承転結は古来の漢詩の絶句の構成を表すものが起源である。その説明に関しては今回の本題から外れてしまうので割愛させてもらうが、現代での理解としてwikipediaにある脚本家の小国英雄の解釈を引用させてもらうと、

 

 起: 主人公の置かれている状態、劇の説明
 承: 主人公の置かれている状態にある事件が起こり、これから段々劇が展開して行く過程
 転: 一つの劇のヤマ場で結果に赴く為の転化
 結: 承、即ち事件とそれによって起こった転化によって出された結果

 

といった構成になる。このような構成をとる最もわかりやすいものは4コマ漫画だろう(ポプテピピックとか近年はだいぶアレだけど)。

 wikipediaには以上の構成で物語は出来ないであるというような書き込みも散見されるが、今回は物語を書く、という前提のため、論説に利用できないといった指摘は無視して頂いて良いかと思う(そもそも漢詩という印象的なものが根底にある起承転結を説得や論説に利用しようとする勢力がいるのかについての批判は置いておこう)。

 以上の意味では、私が先に示した例も完璧とは言い難い。個人的な見解になるが、『起承転結』の『承』と『転』の差別化というのが難解であると思っている。

 一文一文をしっかりと批評してもいいが、時間のムダかと思うので割愛させてもらう。結論としては、『承』の展開の甘さと『転』の転化の小ささが挙げられると思う。改善するのであればその二点が真っ先に思い浮かぶが、このような刹那で考えたような駄文をこれ以上研究するのは無為であろう。

 しかしこの拙い例でも、最低限、読もうと思うだけの展開の変化があることは認めてもらえるかと思う。日本では中等教育までこの起承転結が基本の作文の方法であると習うことも多いので、以上の書き方を感覚的に捉えている方も多いと思うが、なるべく回り道をして理解するとこうなる。

 

 

 映画などの手法では三幕構成など、他の手法も多く取られているし、海外では一般的ではない手法であるが、日本の小説、映画、ゲーム、アニメなどでは依然多く使われている構成であることは確かだと思う。

 物語の構成を意識的に見ることによってさらにその物語を深く自分の中に落とし込めるだけではなく、自身で物語を作る時に大いに役立てることが出来ると私は考えている。

 

 

 再度になるが、以上は私の見解であり、私自身は物語の展開や起承転結について詳しいというわけではない事を再び断っておく。この記事に書いてあることを鵜呑みにして批判されても私は責任は負いたくないので、気になる方は自身でもっと様々なことを調べて訂正でもしてくれたら嬉しい。

 

 わかりにくいと思った方がいるかもしれないが、起承転結の構成は説得や論説に利用できないという。この文章全体が起承転結で構成したつもりなので、やはりこの手法は論説に向いていないという証明になるのだろう。




 

 

 さて、その上でプロットの書き方に関してもすこし触れておこう。そもプロットとは何かということだが、端的に言えば”物語の設計図”である。

 

 物語やシナリオを書く人が直面するのは、「考えてるより面白くない」という事態である。想像していた物語を実際に書いてみると意外と面白くなかった、ということはどんな物書きにも訪れる。自身の想像というものを文章にできるものなど存在しないと言ってしまっても過言ではないだろう。

 しかしどうやって頭で思っていたものに近づけるのか、それこそがプロット制作である。

 前述の通りプロットは物語の設計図である。物語を書くものでプロットを描かずに書く人はごく僅かだろう。長編におけるプロットは例えるならチームプロジェクトの仕様書のようなものだ。制作に必要不可欠と言ってもいい。

 ではプロットには何が書いてあるのだが、中には物語中の重要な出来事が書き記してある。

 

 例えば、

 ジョンは散歩に行く。

 ↓

 途中で犬に噛まれる。

 ↓

 工事現場で事故に巻き込まれそうになる。

 ↓

 横断歩道を渡っていたら轢かれて死ぬ。

  

 酷い例だが、これもプロットである。実際にはここに犬の飼い主や工事現場のおじさん等の様々な人物が関わって物語は構成されるので、それも含めてこの設計図をより詳しく書いたものに肉付けして物語を作っていくのである。

 公開三十分前に急いで書いている文なのでより詳しいものの例示は割愛させてもらう。人によって書き方が大きく違うので、実際に自身が物語が書きやすいと思う書き方を見つけるのがよいだろう。

 

 このプロット制作の最大のメリットは、物語の構成を俯瞰で確認することが出来る点にある。自身の妄想では最高のクライマックスと思っていたとしても、プロットにしてみるとそこに至るまでの道筋が説明不足であったり、起承転結や三幕構成のバランスが不安定になっていたり刷ることが多い。

 他にも物語のテンポを確認したり、様々なメリットがある。物語だけではなく長めの文章を書く時の構成の確認に利用できるテクニックなので、是非次に物語を書こうと思っている方は実践してみて欲しい。物語の説得力が増すはずだ。

 

 





 以上でこの記事を終わりたいと思う。もしこれを読んでくれた方のストーリーの制作の助けになったり、物語を書くということに興味を持って頂けたらこれ以上無い喜びである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまけで僕の最愛のD.C.IIIカーポIII〜に登場するキャラクターである陽ノ下 葵ちゃんについて書こうと思っていたのだが時間が無いので今度別記事で書きます。

 

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   今日説明した物語のプロット、構成が非常に良く出来た良作なので是非一から見てね!

 

02/12/2017     しゃりん